つれづれ

私が日々思うことのつぶやき

抱っこ紐の日々

てるはよく泣いた。

がくは、生後1~2か月は、授乳したら後は寝るという感じで、

寝ている時に俊足で買い物にも行けた。


が、てるは置くと泣くタイプだった。

高槻にいたときは、よく寝てくれいて助かったのに、と

思って、赤ちゃん訪問に来てくれた助産師さんに相談したら、

置いたら泣くタイプの赤ちゃんの方が多いわよとということだった。


旦那は家で仕事をしているから、泣き声が苦痛のようだった。

友達から借りた新生児用の抱っこ紐をつけて、近くのライフまで買い物に行ったり、家事をしていた。

晩もなかなか寝ないので、寝かしつけの為に夜のライフの買い物に行ったりした。


また、よく泣く分、空気を吸うらしく、ガスがお腹にたまりやすかった。

そのため、苦しくてまたなくという悪循環で、綿棒浣腸を1日に1回はしていた。

ひどい時は2回くらいしていた。

がくとの距離

京都に戻って、最初のがくとの対面は緊張した。

私が戻った日に、横浜から来てくれた義理のお父さんは、帰って行った。

てるを見て、喜んでくれた。

料理や掃除など本当にありがたかった。




がくとの対面は緊張した。

お葬式以来だった。

1か月ちょっといなかった母を恨んでいるに違いなかった。


保育所から帰ってくる時間に、ドアを開けて「おかえり」と迎えたら、

がくは、にこりともせず踵を返して、旦那の方に走っていった。


全く喜ばなかった。

「じいじは?」ときいていた。

自分とがくとの距離に改めて気づいた。

やっていけるかなぁ。

京都に戻って、がくとてると旦那と私の4人の生活が始まった。

久々に家族が揃ったという感じだった。


がくへのてるの反応が気になっていたが、最初は無反応だった。

無理もなかった。

てるが産まれた時に一瞬対面しただけだった。

顔を覗き込むこともなかったし、喜んであやすこともなかった。

ただ、てるが泣くとうるさいのか両手で耳を塞いでいた。


こんなんでやっていけるのかなぁという不安な日々の始まりだった。


京都に戻る日悩む

父のお葬式は8月26日に行った。

私の誕生日だ。

さて、父のお葬式でバタバタしていたけど、京都に帰るタイミングをいつにしようかと迷っていた。

本当は、てるの1か月検診までいたいけど、がくの様子も気になる。

旦那は早く帰って来てという。




てるの2週間検診くらいの時に助産師さんに言われた。

「お母さん、一人になったし、一緒にいてあげた方がいいよ。子供はその時だけで、後になったら問題ないから。」

「旦那さんの言う通りにして、自分の主張をしなかったら後々も自分の主張を言えないよ」


確かに。

父が亡くなって、母が憔悴しているのはわかっていた。

母自信も乳がんを患っているから、それが悪化するのも怖った。

父が亡くなってから、原因不明のアキレス腱を傷めるということもあったし。

てるがいたら、赤ちゃんの存在で和まされることも多いだろうし、考えなくても済むこともあるだろう。


けれど、旦那からは限界だという悲鳴があがっていた。


だから、私は3週間目に入る前に京都に帰った。


がくとの対面

父が亡くなったのは、病院に戻って、3日目だった。

最期は母が見守る中、息を静かに引き取った。




それから、お葬式の準備など、悲しむ間もなく、ことを進めなければならなかった。

お葬式で久しぶりにがくと会った。

がくは、最初は横浜の両親に来てもらって、京都の生活を楽しんでいたけど、保育所ではぼーっとしている

ことも多くて、家でもわがままばかりで困っているときいていた。

久しぶりにあう私のことを覚えているか不安だったけど、なんとか覚えてくれているようだった。

ただ、私に置いて行かれた怒りと不安はしっかり根付いているようで、私がごはんの時に注しても聞かず、

旦那とくっついている感じがあった。


お葬式は、小さい子には退屈だ。終始泣いていて、家に帰りたがっていた。

また病院へ

異変は、夜中に起こった。

明け方1階からおばちゃんが、上がってきた。

父が昨夜寝れなくて、隣の部屋で寝ている母が一睡もできていないとのことだった。

てるの授乳を切り上げて、1階に見に行った。

ベッドに座った父が歩けないのにベッドを持ってたとうとしている。

危ないからと必死に母がとめていた。

そしたら次にパジャマのボタンをとろうとしていた。

風邪ひくし、そのまま着ていていいのだよと言っても、また同じようなことを繰り返す。

様子が変だ。




私は、母に相談して、昨日のお医者さんに電話しようと言った。

母は疲れからか、何も考えられないようで、私の好きなようにしたらよいと言っていた。

私は、父の様子を紙に箇条書きにして、すぐお医者さんに電話した。

離れた場所におられたけど、来てくれた。


父を診察した後、お医者さんは父の寝ていると何の部屋で私達を呼び、ふすまをしめた。

先生は「思ったより症状の悪化が早いです」と言った。

パジャマのボタンをとったりするのは、アンモニアが脳にまわっているからということだった。

そうすると、本人の意識とは関係のないところで、同じような動作を繰り返してしまうらしい。

先生は、病院に戻るか、このまま家で最期を看るか早めに決めた方がよいというようなことを言った。

もし、病院に戻るなた休日なので、救急車を呼んで下さいと言われた。


一昨日帰ってきたのに、また病院に戻るの?と思ったけど、正直女性陣だけでは、介護するのは難しいと私は痛感していた。

ただ、母は最期を家で看取るということを父と約束したようで、なんとか家で看たいと思っていたようだ。

病院で何度も父は、家に帰っていいの?と母に尋ねたらしい。

母はもちろん、あなたの家ですからと応えただろう。


私は、父はちゃんと家に帰ってこれたし、病院の方が父も安心するよということを伝えて、母もそうねと言ってくれた。


私が、点滴袋を新しいものに変えた後、救急車を呼んだ。

点滴袋を変えたのは、初めてで、これが失敗したら父の様態に関係するのだと思うと、とても緊張した。

もともと病気を持っている人が救急車を呼んでもいいのかと思ったけど、

救急隊員は、到着後、脈などを素早く的確にはかり、父に名前や年齢を尋ね、とても迅速で丁寧な対応で

高槻病院まで運んでくれた。

父が家に帰ってきて3日目のことだった。


一日目

家に帰った父は、1階の仏間に用意した電動ベッドで寝て過ごすことになった。

ベッドに横たわりながら、外の景色を見て、「やっぱり家はいいなぁ」と呟いた。

落ち着くらしい。


家で過ごす間は、在宅ケアのお医者さんに見に来てもらうことになった。

優しそうなお医者さんと看護師さんだった。

トイレに行く時は、私の肩に捕まって、歩いた。


そして、父はお葬式の遺影の写真を選ばなきゃいけないと言った。

姉と母と私と父が食卓に座りどの写真がいいか皆で選んだ。

妙な感じだった。

今目の前にいる人は、元気じゃないけど、まだ生きていて意識もしっかりしている。

なのに、その人が確実に亡くなるであろうと思って、写真を選ぶ。


母が突然泣き出して、こういった。

「あなた、二人もいい娘を持って、よかったじゃないの」

父も泣いて頷いていた。

私達も泣きそうだったが、私は希望を捨てたくなかったから、泣かなかった。


晩御飯だけ2階で食べた。

おばちゃんが、父の希望をきいてこの時期ではさらに高いアワビを買ってきてくれた。

全部は食べれなかったが、少しでも食べれて満足そうだった。


家で最期を迎えたい

産院を退院した翌日、父を迎えに行った。

父の希望は最期を家で迎えたいということだった。

車の後部座席に乗るのも、やっとだった。

歩くのがさらに困難になっていて、力をいれにくいようだった。

家まで帰る途中で、父が懐かしそうに外の景色を見ていた。

後ろに座りながら、「もう父さんは車を運転できないから、この車はお前が好きに乗ったらいい」というようなことを言っていたのが印象に残った。

家に帰宅後、てるを早速だっこして、「かわいいなぁ」と言っていた。

抱っこも、腕がしんどそうだったので一瞬だったけど嬉しそうだった。


自分が死にそうな時に、新しい生命の誕生を見て、どんな思いだったのだろうか。

病院で母が無事に産まれたよと父に報告したら父が涙を流して喜んでいたということを思い出した。

2016年 8月13日

この日は朝6時くらいに起きると、なんだか下着が濡れてる気がした。

もしかして破水?最初少しだったけど、後からどっと来た。

やっぱり破水だ。がくの時も破水から始まった。

ただ、陣痛がこなくて、陣痛促進剤を飲んで最後は赤ちゃんの心拍が下がって押し出しになったし、いろいろあった。

陣痛が起こらないか心配だったけど、今回は来た。最初から5~6分間隔だ。

病院に電話すると、破水しているので来てくださいとのこと。

実家から歩いて5分の病院でよかった。

母に破水して病院行く旨を伝えても、よくわかっていなかったらしく、ついてこない。

特に一人でも問題ないし、準備した荷物持ってとことこ歩いていたら、1階に住んでいる叔母がついてきてくれた。

病院についたら子宮口も3㎝ぐらい開いていますよということだった。

とりあえず安心。

そして、13時3分、男の子が産まれた。

ちなみに、旦那はなかなか来ないなと思っていたら、がくのオムツ替えにてこづっていたらしい。

だが、最後のふんばりの時に来た。そしてやっぱり遠くから生物が産まれる瞬間を興味深く観察していた。

入院生活

父は病院では、ほとんどテレビを見て過ごしていた。

ちょうど甲子園が始まっていて、昔から好きだったから、甲子園の中継を見ていた。

テレビはカード式ですぐになくなるから、買って渡すと喜んでくれた。

時々がくが見舞いに来ると、とても喜んでいた。

足がむくんで歩くのがしんどそうだった。

私が、マッサージとかないんですか?ときくと、機械がありますよということだったので、早速お願いした。

父はマッサージすると少し楽になるんだと言っていた。

見舞いに行った時は、できるだけ足のマッサージをした。

8月に入ると、私のお腹も大きくなり、いつ産まれてもよい感じだった。