私が日々思うことのつぶやき
家に帰宅して次の日。
朝ごはんを食べるのを手伝う。
ほんとにゆっくりしか食べれなくて、量も少しだった。
病院と連携していて、家に来てくれる在宅のお医者さんが来てくれた。
父が便が出ないので、指で掻き出してくれた。
とても痛そうだったけど、終わった後はすっきりしていた。
便は薬の影響か、灰色だった。
マッサージの仕方も教えてもらった。
そのあと、シャワーにも入れてくれた。
出てきた父はとても気持ちよさそうだった。
その日は父の姉もお見舞いに来てくれた。
病院にもお見舞いに来てくれていたけど、最期だと思ってもう一度会いに来てくれた。
昨日は、歩けていたのに今日は歩くことができなくなっていた。
さてさて、我が家ではなかなか起きてこない子供の為に、Eテレで7時25分から始まる「デザインあ」と「ピタゴラスイッチ」を
見るという習慣があります。
旦那さんが出張が多かった11月くらいに始めたのかな?
それを見てすっかりピタゴラスイッチにはまった長男君。
「作って~」となったので、
もともとこういうの作るのやってみたかった私、張り切りました。
まずは第1弾と第2段ご覧ください。
第1弾はとっても簡単。
第2段は、チョロキューバスを押すのがうまくいかなくて四苦八苦しました。
我が家の2歳半(てる)の息子の食事
朝・・・卵かけ、人参とピーマンのきんぴら、お味噌汁、いちご、ヨーグルト、みかん
毎日だいたいこんな感じです。果物だけが季節によって変わるけど。
ちなみに彼は、果物大好き。
今日もいちごをもっと欲しいと要求されて、+2個いちごを渡しました。
長男は、逆に果物がそんなに好きではなくて、今日は珍しくいちごを2つ食べた。
けど、へたの白い部分は弟へ。
ちなみに、てるはお味噌汁など汁は大好きなんだけど、具は残す。
晩に残した具だけを食べるという感じです。
あと、卵が大好きで、ごはんには卵かけと言ってくる。
長男は、卵かけは好きじゃない。
全然好みが違う~!
4歳半の長男は、食が細くて、1歳くらいの時はあまり食べなくて苦労しました。
1か月くらいご飯だけの時もあったかなぁ。
でも今は、出したものは大体食べてくれます。
2歳くらいの時まで、小松菜の煮びたしやほうれんそうのごまあえは、ぺーぺー出していたのが嘘のようです。
3歳過ぎから少しづつ食べてくれるようになって、4歳だと本当に嫌なもの以外はいけるようになったかな。
彼も成長したなぁ。
最近、2歳のてるさんに少しやっかいな悩みがある。
それは、晩御飯をあまり食べないということ。
保育所から帰ってきたら、手も洗わずに食卓に向かう。
これは、いつもと同じ。
しかし、自分の好きなおかずを少し食べたら、畳の部屋でぐるぐる回ったたり、遊び始めてしまう。
そして、ごはんはほとんど手付かずのまま・・・
食べないの?と確認したら、ご馳走さまで頷く。
しょうがないので、片づけて、お風呂入って寝るという時になった。
布団に入ってから、「ごはん食べる~!」と言い出す。
はい~?さっき、尋ねたらご馳走さんって言ってたじゃないか~!
歯磨きもしたし、そもそも21時だし、もうあげないと言ったら、ギャン泣き・・・。
放っておくと10分くらい泣いた後、疲れ果てていつものように私のとこに来て寝ました。
翌朝、おなか減ってるかなぁと思って、卵かけごはん少し多めにしていたら、残したし。
息子の腹の具合がさっぱりわからない私でした。
今日の夢は、初めて見たがとても印象的だった。
亡き母と父が出てきた。
崖のような細い道をみんなで歩いていて、50mくらい下には大きな川が流れていた。
上から大きな鮒みたいな魚も見えたし、小さな群れになっている魚も見えた。
私は母に「大きな魚がいるよ、見てー!」と叫んでいた。
母は、「本当ね。」と言って後から歩いていた。
私が魚を見ている間、母が抜かしたようで、母が前を歩いていた。
その瞬間、川の方から糸のようなものが母に巻き付いて、母は崖の下の川へと落ちていった。
私はびっくりして、それでも母を助けなきゃと思って、上の服を脱いで、眼鏡(なぜかかけていた)を取って、
川へ飛び込んだ。
母は骨が弱いし、川に飛び込む衝撃だけでも大変なことになってしまうと思い、焦りながら母を探した。
が、あたりは暗くなっていて、一向に母を見つけることはできなかった。
上から川を見てみると、大きなタコの足が、川の崖の穴からにょろっと出てきて、魚をあっという間に捕まえて穴の中に引きずりこむのが見えた。
もしかしたら、母はタコに引きずりこまれて食べられてしまったのかもしれない。
とても怖い夢だった。
我が家には、4歳(がく)と2歳(てる)の息子がいる。
二人とも8月産まれでちょうど2歳差。
最近は、弟が話せるようになってきた。
兄は、弟に自分のまねをしてほしくてたまらない。
今朝は、まず兄が「オッペ(ほっぺ)」と言っていた。それを弟が忠実に再現する。
「オッペ」の発音が少しでも違うようなものなら、兄が「違う!」と言ってもう一回、「オッペ」と言う。
できたら、兄は満足げに「そう!」と言って、違う言葉を話す。
こういうやりとりを最近二人はよくしていて、二人でゲラゲラ楽しそうに笑っている。
今は子育てが、本当に楽になった。てるも話せるようになってきて、がくと一緒に遊ぶようになった。正確に言うと、
がくが照と一緒に遊ぶのが楽しくなってきたようだ。今が一番かわいい時かもしれない。
てるはよく泣いた。
がくは、生後1~2か月は、授乳したら後は寝るという感じで、
寝ている時に俊足で買い物にも行けた。
が、てるは置くと泣くタイプだった。
高槻にいたときは、よく寝てくれいて助かったのに、と
思って、赤ちゃん訪問に来てくれた助産師さんに相談したら、
置いたら泣くタイプの赤ちゃんの方が多いわよとということだった。
旦那は家で仕事をしているから、泣き声が苦痛のようだった。
友達から借りた新生児用の抱っこ紐をつけて、近くのライフまで買い物に行ったり、家事をしていた。
晩もなかなか寝ないので、寝かしつけの為に夜のライフの買い物に行ったりした。
また、よく泣く分、空気を吸うらしく、ガスがお腹にたまりやすかった。
そのため、苦しくてまたなくという悪循環で、綿棒浣腸を1日に1回はしていた。
ひどい時は2回くらいしていた。
京都に戻って、最初のがくとの対面は緊張した。
私が戻った日に、横浜から来てくれた義理のお父さんは、帰って行った。
てるを見て、喜んでくれた。
料理や掃除など本当にありがたかった。
がくとの対面は緊張した。
お葬式以来だった。
1か月ちょっといなかった母を恨んでいるに違いなかった。
保育所から帰ってくる時間に、ドアを開けて「おかえり」と迎えたら、
がくは、にこりともせず踵を返して、旦那の方に走っていった。
全く喜ばなかった。
「じいじは?」ときいていた。
自分とがくとの距離に改めて気づいた。
京都に戻って、がくとてると旦那と私の4人の生活が始まった。
久々に家族が揃ったという感じだった。
がくへのてるの反応が気になっていたが、最初は無反応だった。
無理もなかった。
てるが産まれた時に一瞬対面しただけだった。
顔を覗き込むこともなかったし、喜んであやすこともなかった。
ただ、てるが泣くとうるさいのか両手で耳を塞いでいた。
こんなんでやっていけるのかなぁという不安な日々の始まりだった。
父のお葬式は8月26日に行った。
私の誕生日だ。
さて、父のお葬式でバタバタしていたけど、京都に帰るタイミングをいつにしようかと迷っていた。
本当は、てるの1か月検診までいたいけど、がくの様子も気になる。
旦那は早く帰って来てという。
てるの2週間検診くらいの時に助産師さんに言われた。
「お母さん、一人になったし、一緒にいてあげた方がいいよ。子供はその時だけで、後になったら問題ないから。」
「旦那さんの言う通りにして、自分の主張をしなかったら後々も自分の主張を言えないよ」
確かに。
父が亡くなって、母が憔悴しているのはわかっていた。
母自信も乳がんを患っているから、それが悪化するのも怖った。
父が亡くなってから、原因不明のアキレス腱を傷めるということもあったし。
てるがいたら、赤ちゃんの存在で和まされることも多いだろうし、考えなくても済むこともあるだろう。
けれど、旦那からは限界だという悲鳴があがっていた。
だから、私は3週間目に入る前に京都に帰った。