つれづれ

私が日々思うことのつぶやき

ガーナの一説

中学生の時、ガーナと呼ばれていた理科の先生がいた。

彼のこの一説が私の人生を大きく変えることになった。

「君たちも大きくなったら、世界のいろんな国を見たらいい。世界には、貧困で苦しんでいる人がたくさんいるけれど、

僕が行ったガーナという国の子供の目は生き生きしていたよ」


こんな感じのことを言った。

食べるものも十分にないのに、目が生き生きしている?

すごいな。ガーナという国はどんな国なんだろうと思った。

ちなみに、その先生は、青年海外協力隊というのに参加して行ったらしい。


早速協力隊を調べてみた。

いろんな技能や職業で、発展途上国と呼ばれている国に派遣されて、現地で活躍できることを知った。

私もこれに参加して、飢えや貧困をなくすか活動ができたらと思った。




それから、テレビで途上国の様子が出される画面を見ると、目にとまるようになった。

世界には食べ物を食べれなくて困ってる人がいるんだぁ。


看護師さんも活躍できそうだけど、その前にそもそも食料がなくて栄養失調が起こってるんじゃないか。

野菜がもっとあって、多くの人が食べれたら栄養状態がよくなるんじゃないか。


よし、野菜栽培の普及で、協力隊に行こう!


中学の時の私は、単純で、こうと思ったらそれに突き進む傾向があった。

この考えで、農学部に行きたいと思って、大学を選んだし、その後JAに就職することになる。

自分の足跡を残したい

そもそもブログを書こうと思ったのは、

「植物のミカタ」のpv数をあげる手段としてだった。

書いてるうちに、もう一つの目的ができた。


それは、自分の記録を残すということ。

私という人間がどうやって育って、何を考えて生きていたか。


自分の生きていた足跡を残したいと思う人は多いだろう。

特に人生の半ばにさしかかると、残りのことを考えて、最期はこういう人生で締めくくりたいなと

思い描いてくる人も多いかもしれない。

私も、その一人。


癌で苦しんで亡くなった両親を見ているから、自分は最期は老衰で亡くなりたいという願いがある。

私の祖母(父の母)がそうだった。

最期は、水も飲めなくなって家でなくなったけど、本当に人生を穏やかに締めくくった感がある。


それに、ブログを書いていることで、後に、がくやてるが見る日が来るかもしれない。


私の母は、あまり自分の思いを語らない人だった。

だから、どういうことをしたいか、どうしてほしいのか、周りがあまりわかっていなかったように思う。

なんとなく、私と母には考えの似ているところがあるのか、母が語らなくても、なんとなくこうしてほしいのかなぁとか

感じることがあった。

そんなこんなで自分の思いをブログに綴ることで、

自分の足跡を残していきたい。


がくお兄ちゃん

昨日と今日と旦那さんが出張なのだけど、4歳過ぎたあたりからがくが頑張ってくれる。

例えば、お風呂上がりのてるの着替え。

まず、がくが出て、自分で着替え終わったら、てるの着替えをしてくれる。

「がくの着替えができたら、教えてね~」と言って、暫くして「いい?」

ときくと、「まだ」。

できたら「いいよ~!」と教えてくれる。

てるを拭いて、がくにお願いする。

少し前までは「ボタンがとめれない」といつもの半泣き状態だったけど、

昨日は、ボタンとオムツとズボンまで完璧にしてくれた。


ドライヤーもしてくれるのだけど、これは、重たいから腕がつかれて途中で終了。

でも、ほんと、助かる!

この瞬間がお兄ちゃんになったなと、つくづく感じる。


しかも、布団も21時過ぎには自分で入ってくれる。

3歳くらいまでは22時くらいにならないと布団に入らなかったのが、嘘のようだ。

「やった~!今日は、一人で寝れる!」といって、布団に入っていつのまにか寝ていた。


旦那と一緒にいつも寝ているのだけど、狭いのだろうか・・・

前は一緒じゃないと寂しそうだったけど、これはまた新たな進展だな。



自分が輝けるものを探せ

40歳も近づいてくると、時々思うことがある。

母の歳までだったら、あと半分も生きれないなと。

私は何をしたいんだろう。


子供も手がかからなくなってきたら、自分のしたいこと、すべきことも考えなきゃいけないな。

ほんと、人生は短い。

母がなくなって、死というものへの恐怖がかなり減った。


20代前半のころは、いつ死ぬかわからないし、やりたいこと今のうちやっておこうといろいろ焦った。

中学のころからやってみたかった青年海外協力隊も何度も受験し、その為に入った農協も辞めて

日本農業実践学園で半年野菜を栽培した。

そのあと、長野の白州郷牧場、栃木のきのこ農家、軽井沢のレタス農家、香川のレタス農家、小値鹿の担い手公社でお世話になった。

結局、協力隊に行けずで、地球市民の会のインターンでミャンマーで一年、現地の人と畑を耕した。


そこで、自分の役に立たなささを痛感して、農業法人で約3年半?くらい働き・・・


30歳も過ぎて、結婚に焦り、4年くらい婚活して、なぜか今の旦那と結婚することになった。


子ども二人できて、人から見たら順風万帆かもしれない。


でも、私は思うのだ。ここで終わってはいけない。

ただ、もう一人子供が欲しいという欲望だけに縛られて人生を終わってはいけない。

何か自分が輝けるものを見つけなくてはいけない。

きっと誰にでもそれがあるはず。



一番大変だった時

そうそう、ちょうどてるが生後3か月くらいの時のこと。

がくは、ようやくてるを認識してたけど、全くかわいがるということはなかった。

平日は保育所に行ってるから、朝と夜だけ一緒なだけで、なんとかなったけど、

日曜日、旦那が仕事で家にいない時は、大変だった。

てるが泣き、がくもイヤイヤで泣き始めて、家の中にギャーという泣き声が響いていた。

私はどっちも泣き止まないし、どうしようと茫然として座っていたのを覚えている。


よく電車のDVDを何回も繰り返して、がくを泣き止ませていたのを覚えている。

そういえば、食事の時もつけていた。

それじゃないと食卓に来なかったし、とにかくイヤイヤ期の彼の癇癪がすごかった。


てるのハイハイが始まると、今度はおもちゃの取り合いが始まった。

弟は兄のおもちゃに興味深々で一緒に遊びたい。

でも兄は、とられたくない。

おもちゃを投げたり、てるが歩けるようになったら押し倒すということが1日に数回あった。


一度、実家で押し倒しがあって、てるの頭から血がにじんだことがあった。

病院には行かなかったけど、母も毎日こんなんなの?と驚いていた。


もう一人子供が欲しい

母が亡くなって、強く思うこととして、第一に頼れる存在がなくなったということ。

やっぱり何かあった時に、遠慮もなく頼れるのは、母である。

特になにもなくても、「そこにいる」という存在が大切だったんだと思う。


母が亡くなって、子供らも二人で仲良く遊べるようになってから、やっぱりもう一人血のつながった子が欲しいなと

強く思うようになった。


自分が二人姉妹の時、自分にも妹や弟が欲しいなという思いがあって、3人兄弟に強い憧れがあった。

本当は、3人いたらコミュニティもできて、兄弟は楽しいんだろうなと思う。

でも、こればっかりは私の思い。

自分が仕事を取れて、売り上げに貢献できたら少しは意見をきいてもらえるのだろうけど難しいな。


旦那には、新しいお父さんを探してくれと言われた。

なかなか3人欲しいという気持ちをあきらめられずもう1年になってしまうなぁ。


「ここまで入れて!」

そういえば、今朝、がくが

朝食時に

「水欲しい」

と言ってきた。


トーマスの容器に水をいれて、渡したら少なかったらしく

「トーマスの目のところまで入れて!」


お~指定来ました。

いつもだったら、もっと入れてというだけなのに。

いつのまに、ここまで入れるという言い方を覚えたのか。


生意気になったなぁと思いつつも息子の成長を感じる私でした。


目下の悩み

最近、2歳、てるさんが、ごはんを食べなくなってきた。

前なら、保育所から帰ってきたら、一目散に机に来て、用意したごはんを

自分ですごい勢いで食べていた。


ここ1~2か月ほどは、帰って来て、ごはんが用意してあったら、一応いすに座って

食べるのだけど、1口か2口くらいしたら、もうおもちゃで遊んでいる。


食事はやりやすくて、助かってたんだけどなぁ。

がくは、2歳くらいは、自分で食べるということはほとんどなかった。

食べなくていいの?くらいごはんくらいしか食べなかったし、菜っ葉も嫌がったから

大体毎日白和えにして、刻んだ菜っ葉を入れていたと思う。



今は逆転。

4歳がくは、大体のものを食べられるようになった。

彼が苦手なものは、牛乳、これは美味しくないから頷ける。

あとは、なめことか。

最近は、前まで好きだったレバーやいちごが嫌になった。

いちごは、食べられる時と食べられない時がある。

どっちにしろへたの白いところは毎回残す。


彼は、味に敏感みたいで、少し納豆のたれが多くても辛いというし、

触感が悪いものは、傷んだところはわかるらしく、出してくる。


でも、今はホウレンソウの胡麻和えや、小松菜の煮びたしも行けるし、魚も結構食べられるようになった。

ありがたや~。


てるも、好きなものは相変わらず好きで、みかんやばなな、いちご、トマトは、食べる?ときくと飛んでくる。

他のものをどうするかだなぁ。




それでよいのか?てるさん

今朝の朝食の時のこと。

4歳の兄は、こだわりが多くて、例えばビヒダスやブルガリアなどのプレーンヨーグルトは食べない。

なので、4個入りとかで低糖ヨーグルトが安くなっていると彼用に時々買ってくる。

一方、2歳のてるは、プレーンヨーグルトにきなこをかければ食べてくれる。


いくら安い時に買うと言っても、大きな容器に入っているプレーンヨーグルトを買う方が家計に優しいので、

いつも朝食後に、「てるに見つからないよう食べてね」

と言って、がくに個々の容器に入ったヨーグルトを渡している。


今朝もなんとか見つからないように食べれたかなと思っていたけど、実は見つかっていたのが判明。

てる用に、ビヒダスを小さな容器い入れて渡したら、ルンルン気分でいつものようにテレビの部屋で食べ始めた。


机を拭きに行ったら、なんとチチヤスの個別容器でヨーグルトを食べている。

あれっ?がくのあげたの?と思ったら、がくも食べてる。


ということは、旦那が冷蔵庫にあった残り1個をあげたのか?


ではなかった。以前がくが食べたヨーグルトの容器に、ビヒダスのヨーグルトを移していた。

最近ピタゴラスイッチにはまっていて、それに使えそうなものは、なんでも取っておこうとチチヤスのヨーグルトの容器を

洗って取っておいていたのだった。

てるは、がくが食べているのを見て、自分もその容器で食べたかったのだ。


というか、中身は違うけど、よいのか?恐らく中身は違うとわかっているはず。

いつもなら、同じの欲しいと言ってくるけど、言わなかった。

容器さえ同じであれば満足してくれるてるさん。


中身が違うとわかって、ビヒダスでいいよとしてくれたのなら、ありがとう。

忘れられない電話

2月に入った。

ちょうど一年前の2月、母から電話があった。

あれは、下旬頃だったろうか。

「あっ、りょうこ?今電話大丈夫?」

母から突然電話があるのは、珍しかった。

「どうしたの?」

ときくと、今週か、来週かどこかで高槻に来れない?」

ときいてきた。

これまた、こっちに来てほしいなんて言われたのは初めてだったおんで、驚いた。

「実は、こないだ病院で検査したら、肝臓に癌を表す数値がボンとあがっていて、

家族の方にも一緒に病院に来てくださいと言われたのよ」




顔から血の気がひくのがわかった。

先月病院に一緒に行った時、肝臓に影が見えていたのが気になって、もしかして癌が転移しているかもと言われて、

父の時を思ってショックを受けていたけど、

次の検査で数値が減っていたと母からきいて安心していたところだった。

「なんで、また増えたの?」

ときくと、どうやら新しく変えた薬の副作用がしんどくて、2週間ほど薬を飲むのを止めていたらしい。

そんな、なんで薬飲まなかったのと思っても、本人がよっぽどしんどかったのだろう。

とりあえず、心配なものの、病院に一緒に行く日程を決めて電話を切った。


今思うと、母はあの時務めて明るい声を出していたのだと思う。

心配させない為にいつもよりわざと明るい声を出していた。

「りょうこ?」と電話口にきいた母の声は、今でも思い出す。