私が日々思うことのつぶやき
父が入院してから、私は車を運転しながら2日に1回ほどお見舞いに行った。
ちょうど7月の終わりから8月にかけての入院で、その年は猛暑だった。
後から私が里帰り出産やったから、車運転できる人いてよかったと叔母から言われた時は、とても嬉しかった。
私はこんな大変な時に、自分の出産で周囲に心配と迷惑をかけて申し訳ないと思っていた。
病院の先生から詳しい話をきくということで、茨城県からかけつけた姉がかけつけた。
父も一緒に話をきくらしい。
先生はこう言った。
「末期で、肝臓の9割程癌が浸食しています。治療のしようがありません。余命としてはあと3か月くらいかもしれません」
本人もいるから、そんな宣言が来るとは思ってもみなかった。
今の病院ってこんな感じで患者も事前に知らされずに、余命宣告を受けるのだろうか。
正直返す言葉もなかった。私は父を励ますため、「でも、気の持ちようでよくなったり余命が長くなることはあるんですよね?」ときいた。
先生は「もちろんあります。」ということを言ったように思う。
父の表情からは、何もわからなかったが、ショックを受けているのは十分理解できた。
父のようやく病院に行く決心をしたらしく、歩きづらい足で近くの中島病院まで行った。
母も後から追いかけていった。
帰ってきた父は、変な笑顔でこういった。
「もしかしたら、父さん、癌かもしれんわ」。
え?っと一瞬よくわからなかった。
母の話によると、映した写真から黒い影が見えたらしく、至急大病院に行って検査を受けよということだった。
翌日、高槻病院で検査を受けると、父は末期の肝臓がんになっていたことがわかった。
父は、それから高槻病院にすぐ入院することになった。
詳しい話を先生からきくまでは、入院期間がいつ頃までか全くわからなかった。
私の出産どころではなくなった。
まず、長男を京都の家に戻し、保育園に行ってもらう。
主人の両親に家事などを手伝ってもらうために横浜からきてもらうことにした。
長男は、京都に帰る時よくわかっていなかった。
ただ、車にのれるからラッキーぐらいに思っていたかもしれない。
その翌日から、母と父の見舞いにいく日々が始まった。
そういえば、てるが産まれた時は、大変だった。
予定日の2か月前には実家に帰っていたのだが、どうも父の様子がおかしかった。
大好きながくが家にいるのに、いつものように写真を撮ろうともしないし、がくを見ようともしなかった。
それよりは、自分のことで精いっぱいという感じで、ソファで横になったり、昼寝をしていた。
どうやら夜も寝れないらしい。
何より、あんなに便通がよかった父が、トイレに入ってからなかなか出てこない。
便が出なくて困っているとのことだった。
夜もあまり食べなくなって、母に「こんなに食べれるか、もっと少なくせい」みたいなことを言っていた。
歳だから食欲もないのかなと思いつつ、なんか妙だなぁと思ってた。
ある日ソファで寝ていた父の足がパンパンだった。
父もようやく異常に気づいたらしく、足がパンパンだと言っていた。
そこから、母と私で病院行ってと懇願した。
前から病院に行くように行っていたのに、断固として父は行こうとしなかった。