JR西日本の万葉まほろば線の巻向(まきむく)駅のすぐ近くで纒向遺跡が発見された。
この遺跡から南の方に20分程歩くと、
箸墓古墳というとても大きな古墳がある。
巻向駅は縁合って、箸墓古墳付近でいろいろとやってきたので、この場所には親近感が湧く。
纒向遺跡ってどんな遺跡? - 桜井市纒向学研究センターのページによると、出土品が他の遺跡と異なり特殊でヤマト政権最初の都宮ではないかと注目されているらしい。
先程も記載したが、この巻向駅付近には縁合ってと記載したが、不思議に思っている事があって、巻向周辺は今まで見てきたところの中で食料の確保の点で特に目立った事がないということ。
地図で見ると畿内の内陸側で海に近いわけでもなく、平地が多いわけでもない。
ただ、古墳時代の本州の形を考えると、確か大阪は難波津(河内湾)というものがあって、巻向は実は海から近かったという話があったことを思い出した。
海が近いという事を加味しても、栽培の面で食料が確保しにくいことには変わりないわけで、不思議であった。
巻向で都を作り始めた頃は、他地域で食料生産に関する様々な技法が生み出され、巻向という地域でも安定的に栽培出来るようになったから、地質に頼った栽培は不要になって、それ以上に軍事や流通の方が大事になったということか?
古事記でも国生みの最後が大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)で畿内を含む本州を指すらしいので、人々が様々な経験をして最後に行き着いた安定の場所ということになるのかな?
この先、人々は現在でいうところの京都に都を移していくわけだけれども、土質と栽培の面で難易度が上がり続けることになるはずで、吉野川付近で得られた技術では難しくなってくると思う。
この時得られたノウハウというものがあるはずで、それを知ることが出来たら、稲作の秀品率の向上の大きなヒントになるはずなんだ。
この手の話を整理している学問領域は何なのだろう?