前回の闘鶏野神社と闘鶏山古墳の記事で高槻にある闘鶏山古墳に徳島の阿波の青石があったという報告があることを紹介した。

高槻という徳島から離れていて、更に大阪の中でも海から離れているところなのになんで?という疑問が残る。

阿波の青石を海路で運搬したとしても高槻は遠すぎる。


ここで2つのことが頭に浮かんだので、今回はその話。




NHKのブラタモリという番組と以前投稿した佐賀平野は元々海だったかもしれないの記事で話題に触れた縄文海進という用語がある。

縄文時代には今よりも海抜が高く、現在でいうところの平野部が海であった可能性がある。

縄文時代の遺跡は海抜が高かった頃の海岸から少し進んだところにあるということで、全国で有名な遺跡は少し高台のところにあったそうだ。

『日本列島100万年史 大地に刻まれた壮大な物語』(山崎 晴雄,久保 純子):ブルーバックス|講談社BOOK倶楽部の東北の章を参考にして記載


この視点で闘鶏野神社のある場所を地質図で確認してみると、


20万分の1日本シームレス地質図


水色の個所が古墳時代では海だとすると、闘鶏山古墳が浅瀬に囲まれた丘陵の位置にあったように見えてくる。



他の視点で、地図の水色の個所の縁を囲むように分布しているのが大阪層群の海成粘土で、この場所が海であったことがわかる。

大阪層群の海成粘土層


縄文海進によって上の地質図の水色の個所が海であったとするならば、

闘鶏山古墳のすぐ近くまで船で移動出来ることになるわけで、今でいう大阪の北部に位置する高槻に阿波の青石があっても違和感がなくなる。

※闘鶏山古墳の年代から考慮すると周辺は海だったとしても相当浅瀬だっただろうから、少し離れたところから青石を歩いて運んだかも


これらの知見から高槻の中部南部に広がる田畑は昔は海底だったのだろうなという歴史に浸れるようになった。


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市原実 資料・第四紀の日本列島―4 大阪層群と大阪平野