五十鈴川と瀧祭神の記事に引き続き、再び扶桑社から出版されている熊野から読み解く記紀神話〜日本書紀一三〇〇年紀〜からの話を続ける。

伊勢神宮の建設にあたり、垂仁天皇の娘のヤマトヒメが日本各地を巡幸して候補地を探したという話があり、伊勢神宮よりも前の地名には元伊勢という名称が付いたという内容が記載されていた。

※伊勢神宮関連の巡幸の伝承はヤマトヒメの前の代のトヨスキイリヒメから始まっている。

豊鍬入姫命 - Wikipedia


元伊勢についてを調べていったら、日本の文化についてもっと深く知れるかもと思い、調べてみることにした。




最初にどうしても知りたい事として、田道間守がいた時代に熊野古道の紀伊路は利用されていたか?の記事で記載したように、田道間守が常世国(とこよのくに)から非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を持ち帰った時に、非時香菓ことヤマトタチバナを熊野古道に植えた話で、田道間守こと垂仁天皇の時代に熊野古道の場所は利用されていたか?があるので、和歌山と元伊勢で検索をしてみたところ、


Hamanomiya_Wakayama_torii

Saigen Jiro - 投稿者自身による著作物, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=32504569による



和歌山県の下津の北に位置し、



田道間守がヤマトタチバナを植えた六本樹の丘から直線距離で6km程離れている。

垂仁天皇の時代の海抜を考えると、濱宮と六本樹の丘の間の平野部は海であったはずなので、六本樹の丘から濱宮を見たら、海の対岸に位置するといったところか。


濱宮に関して、和歌山県神社庁-濱宮 はまのみや-に拠ると、濱宮は垂仁天皇の時代よりも前にあったことになるので、田道間守が生きた時代では、熊野古道かその付近の道はすでに利用されていたということになる。


余談だけれども、濱宮の地質を調べてみたら、緑泥石帯であった。

濱宮 - 20万分の1シームレス地質図V2


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