六本樹の丘から田道間守の冒険を想像するの記事で、田道間守が常世国(とこよのくに)から持ち帰ったタチバナの木を始めて植えたと言われている六本樹の丘に行ってきた内容を記載した。
田道間守は広い本州の中で、和歌山県の下津に常世国と似たような景色があることを知っていた、もしくは発見したことを不思議に思っていたが、六本樹の丘が熊野古道にあった事でその謎が解消した。
と思ったが、次に生じた疑問として、田道間守が行きていた時代に、現在の熊野古道の場所が利用されていたのか?というものがある。
この内容に対して、再び古事記を引っ張り出してこようと思う。
古事記では木国(きのくに)という記載があり、後の紀伊国(きいのくに)で和歌山県を指すという内容をよく見かける。
木国の名称の由来は雨が多く森林が生い茂っている事からだそうだ。
※スサノオが治めたと言われている根之堅州国(ねのかたすくに、根国:ねのくに)とつながりがあるとか言われるが、まだその手の内容を読み込めていないので今は触れないでおく。
次に下津の地図を俯瞰してみると、
下津に古墳群があった可能性があり、地名の津から、重要な港があったこともわかるため、奈良にある大和政権から下津をつなぐ道があった可能性が高く、現在でいうところの熊野古道の紀伊路(きいじ)は田道間守がいた頃から使われていた可能性が高い。
であれば、六本樹の丘は田道間守の冒険譚において、
下津の港から大和政権の奈良への帰路にあることになり、途中でタチバナの植樹もしくは播種を試した事に不思議はない。
苗やタネに余裕があれば片っ端から試すだろうけれども、そうでなければ常世国に自生していた場所に似ていた丘を重点的に試した事は容易に想像できる。
六本樹の丘は後の天皇の休息の場である橘本王子であるため、休息に適した開けた丘であったのだろうなと想像出来、タチバナにとって日照条件を満たした北限であったかもしれない。
タチバナを介して、熊野古道に対する興味が更に増したことを感じる。