前回の記事で佐賀平野に訪れ、辺り一面、収穫期を迎えたムギ畑が広がっていた
という記事を記載した。
このムギの用途はわからないけれども、知人の知人が大麦を麦茶の原料にしているということだった。
辺り一面のムギ畑は近々収穫され、直後にイネの栽培を開始するそうだ。
所謂イネとムギの二毛作だ。
ここまでムギが盛んに栽培されているのは、佐賀平野がムギの栽培に適しているからなのだろうか?
佐賀平野で栽培されている方から、昔、この辺りは海だったらしく、地下水の為に掘ると数メートル程で塩気の水になるらしい。
だから栽培では、用水路の水を頻繁に使用しているとのこと。
という内容を伺った。
佐賀平野は河川の運搬によって土砂が堆積して拡大してきた沖積平野で、江戸時代の干拓で更に陸地が広がった平野であるらしく、話を聞いた栽培者は正に干拓で広がったところで栽培を営んでいた。
話は変わって、訪れてはいないけれども、先程の話題の個所の北東にある
※マーカーが見えない場合は地図を左下にスライドして下さい。
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)に目を向けてみる。
縄文時代の集落の遺跡で、ここに遺跡がある理由の一つに海が近かった可能性が高いとされる。
縄文時代は今よりも暖かく、海抜が数メートル程高かったとされる。
詰まるところ、1万年〜2000年前(おそらく6000年前あたり)の佐賀平野は海であったことになり、このように縄文時代に海抜が高いことを縄文海進と呼ぶらしい。
海抜の低下や遺跡の南側にある筑後川の川の作用により、海が低くなりつつ泥や砂が堆積して形成されたのが佐賀平野になるのだろう。
※平野が拡大するにつれ、泥砂の運搬に関与する川は増える
※筑後川の上流域は火山礫
となると、見るべきものは筑後川の上流付近を形成する岩石になるだろう。
ということで地質図を開いてみると、
領家変成帯と三郡変成帯の間を流れていた。
領家変成岩は粘性が高いイメージがあって、三郡変成岩の方は現時点の知見ではよくわからない。
どちらにしろ、長い川での土砂の運搬は風化しにくい安定したものが多い傾向にあるので、土質的に見て栽培には不利な土砂である可能性が高い。
ここでふと鳥取砂丘の栽培のことを思い出した。
鳥取砂丘周辺の畑では、四方大麦を育てて、風抑えをしている。
現地の人曰く、
このような砂地であっても、大麦は放任で肥料なしでもよく育つそうだ。
佐賀平野の土はおそらく鳥取砂丘周辺よりも水持ちは良いはずだけれども、腐植の蓄積等の観点では鳥取砂丘と同じようなものだろう。
佐賀平野は大麦が育てやすい環境ではなく、大麦以外の野菜(芋や豆)が育てにくく、何とか育つ高カロリーなものとして大麦が広がったのでないか?
実際のところはどうなんでしょうね?
鳥取砂丘同様、野菜の栽培はバンカープランツ的に畑の4方向を大麦で囲うと良いかもしれない。