ブログをまとめていたり、依頼を受けてどこかで話をすると、○○農法や**理論と名前を付けた方が良いのでは?と助言を受けることがある。
※上記は非常勤で関与している京都農販での話
技術系の話で○○農法といった形で名乗ることはそれだけでブランディング上マイナスであると捉えて、○○農法実践者と名乗っている方を見るだけで、その方からは参考するべきものが無いもないと判断している。
技術体系に名前を付けるという行為は受け手にはわかりやすくなって良いかもしれないけれども、発信者にとっては大きな損がある。
その大きな損に気づいているならば、発信者は絶対に体系に名前を付けたりしないし、
名前を付けるという行為自体が受け手に対しての商売上のポーズとして利用しているはずだ。
栽培の中心にはいつも化学の記事で書いたけれども、師はとても高品質な野菜を栽培していた。
私が師の元に居た時は諸事情により栽培がうまくいっていない時で、その後はその時の環境も糧にして更に高品質な野菜を栽培していた。
師は野菜を販売する方からよく「青木農法」と名乗るべきだと助言されていた。
師はいつも自分の技術で○○農法と名乗るような腕はないですよと謙虚な姿勢を見せていた。
探求をしている方ならわかる誰もが言う話で、
あることを理解すると、わからないことを膨大に増える
ということがある。
経験から得た知識が踏み台になって、更に未知の領域に踏み込めるということで、探求者は常に無知の領域に居続けることだ。
常に挑戦をし続けている人は無知であることを常に自覚し続けているので、謙虚にならざるを得なくなる。
謙虚であるが故に新たな知見を必死になって追い続ける。
話は冒頭の○○農法と名乗ることのマイナス面だけれども、
自身の栽培体系を整理して○○農法(**理論)と呼び出すと、これから得られる知見を全て、自身の○○農法(**理論)にはどのように当てはめることが出来るだろうか?という思考に陥ってしまう。
一度名付けてしまった事に対するジレンマだ。
おそらく自身の技術体系から想像も出来ないような大発見があったとしても、名付けてしまった自身の理論に囚われて、それが大発見であることがわからずに扱ってしまう。
技術体系に名前を付けるという行為には怖さがある。
その技術体系に何の価値があるだろうか?
名前が付いたら確かにわかりやすくなる、実践者はそれだけで充実するかもしれない。
○○農法を名乗った人や実践者は限界を超えるような探求をする意志はあるのだろうか?
科学の持つ正義や公平性に対して常に謙虚で有り続ける姿勢は大事だ。
科学はそれだけ厳重な判断に晒され続けている。
○○農法や**理論からは更なる探求の意志を感じたことはなく、感じるのはいつも商売臭だ。
追記
今回の記事は科学の論文を必死に追っている若い方に対して、とある有機農業系の会社が提唱する理論の実践者が上から目線で「勉強熱心ですね、(自身が実践している)理論を勉強した方が良い」と助言しているところを見て投稿しようと思った。
若い方に対する理論の実践者の態度が残念でならなかった。
しかもこのような態度をする方を今まで数え切れない程たくさんの人数と会ってきた。
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