時が流れるものははやいもので、私が大学院を休学して京丹後で住み込みをしながら栽培を学んだのはかれこれ10数年前。
私は(今でいうところの)スタートアップの初期メンバーとして、職人の長年の技術を短期間で習得することが出来る漠然とした何かを発見するをテーマで、栽培技術を習得しつつ、テーマを解決する解を考えながら日々を過ごしていた。
師は農薬を使わない栽培を行い、所々で草と共存するような半自然栽培のような栽培を行っていて、
NHKテレビテキスト やさいの時間 2011年1月号 p48
師の野菜は半端なく美味しいものだった。
ある知人が「大半の人は美味しい野菜とはどのような味かを知らない」としょっちゅう言っていたけれども、師の野菜を食した時に、この言葉が完全に正しいと思ってしまう程だった。
紹介はここまでにしておいて、私が大学院を休学(のち中退)して、縁も所縁もない、それこそ地名すら知らなかった京丹後の地に住み始めた時、周辺の方々に意外な質問をよくされた。
住み始める時にどうやら某国立大学で植物を研究していた若者がきた
という話が流れたらしく、下記のようなことをどうしても質問したかったのだろう。
今世界中で行われている最新の研究によって自分たちの栽培は楽になるか?
その中で特に遺伝子組み換え技術で栽培は楽になるか?
私はこれらの質問に対してこう応えた。
私の知る限り、大学で行われてる研究は栽培そのものには興味がないので、おそらく楽にはならないと
時々だけれども、師や若い方から施肥効果を高める為に化学を教えて欲しいと頼まれることがあった。
師の本棚には栽培の本以外に化学の本があって、化学の知識が秀品率の向上に関わっているとアタリを付けていた。
私たちは
当時頻繁に使っていた米ぬかボカシから、ものが熟す際に必要な化学というものをまとめ始めた。
大学院の頃の同期が就農したいと言い出したことや、兄を経由して小学校の頃の同級生で養鶏家と再会したことは下記の記事に任せ省略して、
数年が経過して、京都市内の北部で出会った京都農販の話をしよう。
※この時、妻とも出会う
私は社会人向けの栽培教室でバイトで肥料の話をしていた。
肥料の話はもちろん師とまとめたボカシ肥に関することだ。
ボカシ肥の実地講習を行っている時、偶然、京都農販の木村と出会う。
この時、木村と(話は省略したけど)コトブキ園から得た鶏糞の熟成の話をしていて、後日(ボカシ等の化学も含め)詳細を教えて欲しいという流れになった。
京都農販との出会いは私にとって未知であった単肥、BBや農薬といった慣行栽培と呼ばれるジャンルとの出会いで、京都農販の社内研修も兼ねて、師と行ったように木村と慣行周りの化学をまとめはじめた。
どこからか京都農販で話していた社内研修をうちでも話して欲しいということで、いつのまにか生産法人様向けに肥料の話をすることになっていた。
生産法人様向けや生産者グループ向けに話を始めて、各地で地質や気候によって栽培条件が大きく異なることなるが、各地で行われている栽培方法はさほど変わらない。
変わらないからこそわかることで、
有利な土地では少ない労力でも秀品率は高いが、
不利な土地では多くの労力をかけてなんとか秀品率を維持していた。
技術は不利な土地で洗練されていて、その不利な土地の一つに京都市内があったということを知った。
つまりは京都市内は想定外の状況に対処する良質な技術の宝庫だったということになる。
もう一つ知ったことは、悪天候でも秀品率の高い方の特徴して、貪欲に各地で得た知識を欲していて、それを自身の技術として取り入れるが非常に上手であったということ。
各地の情報を貪欲に欲する方が各地にいれば、それだけ各地を回っている人が呼ばれる機会が増え、各地の情報が更に集まってくる。
社内研修を行っている生産法人様やグループを作れる程の人望を持つ人が、秀品率を独占的に向上させて市場で優位に立てることが安易に想像出来る。
今回の記事を改めて俯瞰してみると、私にとって各地の情報が集まる機会の中心には師の本棚にあった化学の本に集約するのだなとしみじみと昔話を思い出してしまった。
そんなこんなで今回の記事は2000回目
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